奉仕すればするほど幸せになる

「奉仕すれば奉仕するほどあなたはより大きな幸せを味わう」

インテグラル・ヨーガ(ヨガの聖典ヨーガスートラの解説本)の著者スワミ・サッチダーナンダの言葉です。

起源前200年前から紀元後400年の間に成立したと言われているヨガの聖典ヨーガスートラの

中の、離欲(ヴァイラーギャ)についての説明でこの文章が出てくる。

離欲という言葉は色のないという意味で、viが「~のない」、ragaが「色」である。

どんな欲望でも、心にその欲望独自の色付けをする。

あなたが心に色付けをした瞬間に、さざ波が形作られ、心に平安が訪れない。

動きやまない心では修行に集中できない。

何かを持続的にやりたい時には、心がほかの欲望によってそらされないようにしないとならない。

離欲というのは私的な執着がないということ、個人的生に対する執着から離れ、他人に奉仕することで、自分自身はより楽しく幸せになる。

ということで、「奉仕すれば奉仕するほど大きな幸せを味わう」という文章につながっていく。

私たちは、人類のために犠牲的献身をささげた人々をほめたたえ、あこがれを抱く。

例えばイエス・キリストの十字架を崇拝するのは、犠牲的献身がその十字架の意味だから。

キリストが自分自身を犠牲とした、その本質を尊ぶ。

さて、そんな大きな話から、本当に小さな自分の話に移動するのも恥ずかしいのだけれど、、、、、。笑。

奉仕すればするほど、、、、、ということで私の感じたことをお話ししたいな、と思う。

今では小学生の娘が幼稚園生だった時のこと。

娘の幼稚園がインフルエンザで学級閉鎖になった翌日、娘が発熱した。 夜の22時くらいから40度近い熱が出始める。 寝たり起きたりを繰り返す娘を、ほとんど寝ないで世話していた私は、朝の9時に病院に連れて行った。 インフルエンザだったら早く薬を飲ませて楽にしてあげたかった。 けれどインフルエンザに感染して発熱しても、12時間以上たたないと結果が出ないそうだ。 先生に「まだインフルエンザの結果が出ないだけかもしれないので、午後まで熱が続いていたらもう一度受診してください」と言われた。 結局高熱が続き、午後も受診。 高熱で「行きたくない~!寝てたい~」という娘に「インフルエンザのお薬飲んだらすぐ治るからもう一度だけがんばろ~」と病院に連れて行く。 今度の結果はインフルエンザのA型、幼稚園で流行っているタイプと同じだった。 前日の夜から娘は大変だった。 咳と熱で何度も起きて、「頭痛い~、首が痛い~」と泣きながら泣き寝入りを繰り返し、「気持ち悪い、吐く~」とトイレで吐き、朝から病院、午後にもまた病院。 病院では鼻の奥に細い綿棒みたいなものを入れる痛い検査を午前中に1回、午後は逃げてしまったせいで3回もやり直し、、、、、、。 朝ごはんも、昼ご飯ものどが痛かったせいかほとんど食べられず。

夜ご飯は「うどんがいい」と言われたのでうどんを柔らかくゆでた。 そうして夜ご飯を「いただきます」と言って一口食べた娘が言った言葉にびっくりした。 「今日はこんなにおいしい夜ごはんが食べられて幸せ!!お母さんありがとう」 びっくりしたと同時に、その言葉に一日看病していた気持ちが楽になった。 そういう心の持ちようの娘であることがうれしくて、幸せな気持ちになることができた。 娘は夜ご飯が美味しいというだけで、つらいことのほうが多かったと思えるような一日を幸せと言えてしまうのだ。 人はどんな時でも、幸せに気づくことができたら、幸せになれる。 それが人から見たらほんのちっぽけなことだって、本人がそれで幸せだと思えれば、それは幸せなことなのだ。 けれど、自分が不幸のど真ん中でおぼれていたら、幸せに気付かず、それは通り過ぎていく。 小さなひまりでも気づく幸せに、私は気づいているだろうか。 幸せを当たり前のことだと流してしまってはいないかな。 ふとそういうことを思った。 そんな前向きな娘は、幸いなことに薬を飲んで次の日には解熱、普段より甘えん坊にはなったものの元気は戻った。 幸いとは言えないことに、それから5日間は幼稚園をお休みしなくてはならない。 5日間べったり娘と一緒だった私は5日後発熱、ただ38度を超えなかったので、花粉症の酷いやつかなぁと思っていた(毎年この時期に花粉のせいで熱が出る)。 休み明けの月曜日、娘を幼稚園に送った後、アレルギーの薬をもらおうと病院に行った。

娘のこともあり一応検査してもらうと、びっくりなことにインフルエンザだった。

病院に行って薬を飲んだのになぜかその後、久しぶりに40度の熱を出した。

インフルエンザってわかったからなの??なんなの??と思いつつ、とりあえず幼稚園に電話して2時間延長保育に入れてもらい、お迎えにはタクシーを呼んで家と幼稚園を往復してもらった。 私は、娘にDVDを選んでもらうとベッドで横になった。 娘はしばらくするとお手紙を書いて私に持ってきてくれた。 「あのね、お母さんが元気になりますように!!ってこれ元気なお母さんと私の絵」 と、言葉を添えながら、可愛い絵手紙を手に載せてくれた。 「ありがとう。とっても嬉しい」 私が笑顔で伝えると、娘はにっこり笑った。 「お母さんが優しい気持ちになってくれて私はとっても嬉しい!!早く元気になってね」 なんだか温かい気持ちになった。 熱でもうろうとしながらも、私は娘が与えてくれたことについて考えていた。 そしてふいに気付いた。 与えるほうも与えられてるということに。 娘がインフルエンザだった時、私はうどんを与える側だった。 娘が「幸せ」と言ってくれた時、私は幸せな気持ちを与えられる側になった。 私が今、インフルエンザでいるとき、娘は手紙を私に与える側だった。 私が「ありがとう」と言った時、娘は嬉しい気持ちを与えられる側になった。 人はどんな時にでも幸せに気づくことができる。 そして、与える時は与えられる時でもある。 だとしたら、どんな時でも気づきを大切にしていたい。 与える時、与えられるのであれば、もっと真心をもって与えたい。 与えられる時、与えるのであれば、与えられたことをもっと噛みしめて与え返したい。 その積み重ねが私と娘の親子の結び目を作っている。 それは人との関係性にも重要なものだ。 私たちは、いつも与えて与えられてをくりかえして生きている。 そのことに、どれだけ注意を払って生きてきたか、私は考えさせられた。 一番最近与えた時の気持ちは、どれだけの真心を持っていたのか? 一番最近与えられた時の気持ちは、どれだけ優しかったのか? 一瞬一瞬に気づくこと、一瞬一瞬に心を籠めるということは、とても難しい。 けれどもそれは、人間として、1人の親としてとてもやりがいがある大切なこと。

そうできたら、私たちは、奉仕すればするほど幸せになっていく。

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